古代社会における上司女性による男性部下に対してのセクハラ
「これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、『私と寝ておくれ。』と言った。」(39章7節)
よせばいいのに、自らに与えられた不思議な夢を兄たちに告げてしまったヨセフさん、兄たちの恨みを買い、奴隷に売られ、着いた先はエジプトの国。そこで、パロ(エジプトの王)の廷臣で侍従長のポティファルという人物がヨセフを買い取りました。主がヨセフと共におられたので、ヨセフは大成功し、上司であるポティファルから莫大な信頼を得るようになります。
ヨセフは有能であっただけでなく、体格も良く美男子でした。ポティファルの妻はヨセフに当然関心を持ったことでしょう。最初は「頼もしいハンサム青年」という印象だったかも知れません。しかし、それはやがて彼女の中で情欲に姿を変え、ついには積極的に性行為を迫るまでの行動に到ったと言うわけです。
クリスチャンの方ならほとんどの方がご存知のこの事件、何とも現代的ではありませんか。言うなれば、セクハラです。しかも、権力関係にある女性上司が部下の男性に対して性関係を迫るのですから、ある意味で進んでいます。これは、古代の物語ですが、日本においては近未来的ですらあると思います。
映画については全く疎い私ですが、記憶が正しければ、1990年代のアメリカの映画の中に女性上司が男性の部下に職場の権力関係を利用して性関係を迫るという内容の映画がありました。私はその映画の紹介をテレビで見て思いました。女性の社会進出が著しく、また、性に対してかなりオープンな女性も多いアメリカでは現実にありうることだろうと感じました。また、映画の紹介者もアメリカでは事実あるようだと話していました。
私はセクハラについての書物は何冊か読んでおりますが、日本では女性による男性に対してのセクハラという事例は目にしたことがありません。いくら女性の社会進出が進んだとは言え、まだまだ、日本では男性を部下に持つ女性上司というのは極めて稀なケースだからでしょう。しかし、これからは分かりません。
話を聖書に戻しましょう。ポティファルという人物は新改訳では「廷臣」であったとかかれておりますが、実はこの言葉、聖書の他の箇所では「宦官」とも訳されているそうです。多くの古代社会では、王などの権力者に直接仕える政府高官は、去勢をしなくてはなりませんでした。宦官は、そのように性的能力を犠牲にして王などに仕え、極めて高い身分や政治権力を持っていました。特に中国の宦官は有名です。
去勢すれば、当然生殖能力はなくなります。しかし、去勢したからといって女性に関心がなくなるわけではありません。性的な欲求は単に肉体的な本能ではなく、精神的人格的なものです。実際に社会的に高い地位にあった宦官が特別美しい妻を持つことはあったようです。
もし、ポティファルが宦官であったとしたらどうでしょう?その妻は通常の性関係を持つことができません。どんなに豊かな財産と高い地位を得ていても、いや、だからこそより一層、性の喜びに飢えていたことが予想できます。夫の愛を実感できず、その欲求不満がついに権力を利用してのセクハラになったとも想像できます。
そう考えますとポティファル妻の心情が分からんでもありません。私たちは彼女を必ずしも淫乱な悪女のようにイメージしてはならないでしょう。もしかしたら、同情すべき寂しい女性と言うイメージの方が正しいのかも知れません。今日、日本においてテレクラやネットで性的パートナーを探す女性たちは必ずしもふしだらとは言い切れないようです。実態を調べるならそこにあるのは、夫に愛されない寂しい妻の姿があります。そのように想像を発展させていくと、私などはポティファルの妻を単純に悪役にしてしまうことに躊躇さえ覚えます。
状況説明はこの程度にして本題に入りましょう。なぜ、私たちはセクハラを卑劣な行為だと感じるのでしょう?その理由は権力関係を利用しているからでしょう。女性が愛情や自分の魅力を武器に性関係を男性に迫るなら、それは「はしたない」と評価されることはあるでしょうが、「卑怯、卑劣」という評価は免れます。
前者と後者の違いは何でしょうか?前者の場合は女性側が「断られて傷つく」というリスクを負っています。そして、相手側には求めを断る権利と自由が与えられています。ところが権力関係を背後に持つセクハラは違います。権力関係の故に求める側には「断られて傷つくことはないだろう」という高慢な思いや、「もし、断ったら権力を用いて報復をしてやる」という愛とは異なる感情があります。一方、求められる側は、断る自由や権利を著しく侵害されてしまいます。上司の求めは断りがたい強制力を持ちますし、さらに断った場合の報復措置も恐れなくてはなりません。
そう考えますと、セクハラには愛のかけらもないのでは?と私などは思ってしまいます。そこにあるのは権力を用いてでも、強制力を行使してでも相手を我が物にしようという支配欲や権力志向ではないでしょうか?それは愛などとはおよそかけ離れた欲望と言わざるを得ないでしょう。聖書によれば、人間は神様から自由意志をもって造られました。それが故に、すべての人間には性についての自由(具体的には拒否する権利)を有していると仮定するのは聖書的だと思います。もし、この仮定が聖書的で正しいとするなら、まさにセクハラは社会的権力の乱用に他なりません。職務上に限定されているはずの権力を人格や愛と密接な関係を持つ性の領域にまで持ち込むとはまさに言語道断であります。
日本社会には驚くほどのセクハラがあります。表に出るのはほんの一部に過ぎません。そして、ほとんどの場合はセクハラを受けた女性が退社する、泣き寝入りするなどの結果に終わっているようです。これだけセクハラが社会的に認知されていても、いまだに加害者である男性側が制裁を受けることは、きわめて少ないのが現状です。
21世紀を迎え、女性の社会進出はさらに加速するでしょう。女性上司が多くの男性の部下を持つことも珍しくなくなるでしょう。また、日本女性も性的にオープンになり、性的欲求を口にし、性行動においてもより積極化することが予想されます。
ただ、今後日本の社会において、いかに女性が社会進出を果たし、権力を握っていくようになったとしても、日本女性にはポティファルの妻にだけはなって欲しくないと願います。男性が権力を得た時のあの卑劣さに女性が倣うことのないようにと願うのです。長い時代にわたって権力と性の問題で苦しめられてきた女性が、同じ過ちを男性に対して犯すことはないと私は期待しております。
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