目的は手段を正当化するか?近親売春による妊娠
「約3ヵ月して、ユダに『あなたの嫁のタマルが売春をし、そのうえ、お聞きください、その売春によってみごもっているのです。』と告げるものがあった。」(創世記38:24)
話しは前回から続きます。長男のエルも次男のオナンも相次いで神様の裁きによってこの世を去ります。そこで残されてかわいそうなのが夫二人に先立たれたタマルです。子どもがいればまだよかったでしょうが、それも与えられないまま、夫二人は先立って行きました。
この状況において、ユダは当然、三男であるシェラを二人の兄に代わってタマルと結婚させる義務がありました。ところが、11節によれば、ユダは、シェラも死んでしまうことを恐れたのでしょう、シェラが成人でないという理由でレビラート婚の約束を引き伸ばしました。どうも、この時からユダの本心はシェラが成人してもタマルとは結婚させないつもりであったようです。そこで、タマルはシェラが成人するまでユダの家でやもめのままで暮らすこととなります。
どうも、しばらくしてタマルはユダの本心に気がついたと思われます。14節後半を見れば、そのことが予想できます。タマルは最初の夫エルからは何らかの形で性的にも裏切りを受けたようです。また、二度目の夫であるオナンにも騙されました。そして、次はしゅうとであるユダにまで欺かれるところだと悟ったのでしょう。まさに、3度目の正直です。タマルは巧みな計画を立てて騙そうとするユダを騙し返します。しかし、騙すこと事態は目的はありませんでした、タマルにとっての至上の目的はあくまでユダ族の継承者を身ごもることでした。
ついにタマルにチャンス到来です。「かなり日がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ」(12節)のです。タマルはこの日を待っていたことでしょう。喪が明けるとユダは羊の毛を切るために、ティムナという地に向かいます。それを知ったタマルはユダニ分からぬように顔を覆い、遊女を装いユダに近づきます。
カナンでは異教の儀礼と関係して売春が盛んであったようです。タマルは妻を失ってこのような環境の中を歩くユダが誘惑に掛かることはとっくに計算ずくだったのでしょう。
ユダはその遊女が嫁のタマルと知らずに関係し、タマルはユダによって妊娠します。タマルは売春の費用として子ヤギを支払う保証としてユダから印形や杖を預かります。これが後に身分証明の働きをし、子どもの父親がユダであるという動かぬ証拠となります。
ユダは印形や杖を預けた遊女を探しますが、見つかりません。その三ヶ月後にタマルの売春と妊娠が告げられます。家長であるユダはそれに対して裁きを宣言します。それは「あの女を引き出して焼き殺せ。」という内容でした。自らが犯したシェラをタマルに与えない欺きの罪や売春に関わった姦淫の罪は棚に上げて、何と勝手な判断でしょう!
そこで登場するのが水戸黄門の印篭ならぬユダの印形と杖です。動かぬ証拠を突き付けられたユダは自らの罪を認めます。「あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ」と自分の罪を認めると同時にタマルの犯した罪も自分に非があることを認めました。その後、タマルは無事、双子を出産します。
このようにタマルの周到な計画と命懸けのチャレンジによってユダ族のお家断絶は避けることが出来ました。でも、誰一人「めでたし、めでたし」と単純に喜ぶことはできません。当然、色々な思いが起こってきます。「いくら何でも、こんな手段をとって子孫を残して神様が祝福されるはずがない。」「目的が正しく、動機が純粋でも達成方法が間違っていたら、祝福されるはずがない」というのが大方のクリスチャンの偽らざる思いでしょう。
正しい目標達成のためとは言え、タマルの犯した罪は三重の意味で大きな罪と言えましょう。まず、ユダを騙した欺きの罪です。二つ目に近親者との性行為ですから、これは近親姦の罪にあたります。三つ目には言うまでもなく売春です。
にもかかわらず、聖書はタマルを祝福された女性として描いております。イエス・キリストの系図にその名が記されていること(マタイ1:3)は、その最たるものでありましょう。私たちはこの物語を通じて「目的が正しく、動機が純粋であるなら、目的達成方法が罪を含んでも正当化される」というメッセージを聖書から受け取るのでしょうか?
よく考えてみれば、信仰の勇者と言われるアブラハム、モーセ、ダビデらは完璧に神様に従い通したわけではありませんでした。彼らの生涯には、神様を悲しませる罪や不信仰がありました。にもかかわらず、神様は一方的な恩寵によって彼らを祝福されました。特に罪に対しての真実な悔い改めがあるなら、神様はそれをお喜びになり、関係回復をして下さるというのは、聖書の最も基本的な教理であります。
タマルの件でも(タマル本人についての記述は見られませんが)ユダの側には真実な悔い改めがあります。38章の26節によれば、ユダは「あの女は私よりも正しい。私が彼女をがわ子シェラに与えなかったことによるものだ。」と自分の罪を認め、自分自身の罪が結果的にタマルに罪を犯させたことを認めました。また、26節の後半に「こうして彼は再び、彼女を知ろうとはしなかった」とあるように、同じ罪を繰り返すことはなかったのです。このことは彼の悔い改めが実を結ぶ真実なものであったことを示します。
以上のように、この件についてはユダの悔い改めで一件落着しており、神様はユダ族を見捨てずに続けて豊かな祝福をお与えになったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
聖書には莫大な数の性的な罪が描かれております。そして、その中にはそれらの性的な罪を悔い改めによって赦されて、神様から祝福された人物もいます。だからと言って「聖書の登場人物がこの様な罪を犯しながら、それでも神様に祝福された」という事実を根拠に「私もこの罪を犯しても、なお神様は私を祝福する。だから、罪を犯そう。」と言うのは明らかな間違いです。しかし、残念ながらこのような論理によって、性的な罪を正当化し、実行に移してしまうクリスチャンがいることを時々耳にします。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)
聖書によれば、原則として目的は手段を正当化しません。神様はご自身がよしとされる手段によって私たちが正しい目的を達成することを願っておられます。どんなに正しい目的達成のためであっても、手段が間違っているなら、私たちは神様の前に刈り取りをしなくてはなりません。私たちは責任を問われるのです。「目的が愛であれば、どのような手段を用いてもよい」という論理が成り立つなら、聖書が戒める性的な罪のほとんどは正当化されてしまうでしょう。そのことを思う時に、私たちは神様を恐れて、罪を憎みつつ、性的にも聖い歩みを導かれたいと願うばかりです。
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