性行為の中に入り込んだ偽りとは?
「しかしオナンは、その生れる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところに入ると、地に流していた。」(創世記38章9節)
創世記の後半3分の1の大部分はヨセフ物語が占めています。人の図った悪さえ益と変えられていくその壮大な摂理の業は、今日の私たちに大きな希望と慰めを与えます。そのようなヨセフ物語と同時進行するように、また、間に挿入されるようにこの38章は書かれています。この38章はユダとその家系について記しています。さらに具体的に言うならユダの一族に起こった二つの事件がここには描かれています。しかも、その二つともが性についての出来事であり、かなり特殊な事件でありました。今回はその内の一つ目について見てゆきましょう。
まず、2節です。ユダはカナン人の娘と結婚をします。どうもこの結婚がその後の問題を引き起こしていったと考えられます。このようにカナン人と同化していく中で、ユダは子どもが与えられないままで、長男と次男を相次いで失い、ユダ族消滅の危機にまで陥るわけです。それというのも当時のカナン人は道徳的にかなり問題があったようです。特にその性道徳はひどいもので、同性愛、近親相姦、獣淫などはカナン文化では当然でありました。これらの文化や性風俗が後に主の民がカナンの地に入る時、どれほど大きな問題になったかは、聖書に親しんでおられる方ならご承知のことでしょう。ですから、ユダの結婚が神様に喜ばれるものでなかったことは明らかです。
聖書では名前も明らかにされていないユダの妻は、3人の男児を出産します。3人は上から順番にエル、オナン、シェラと名づけられました。6節によれば、ユダは長男のエルのためにタマルという名の女性を嫁に迎えます。ところが、そのエルは結婚後死んでしまいます。この死について聖書は6節でその原因を明記しております。「しかし、ユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した」とあります。つまり、エルの死は罪に対しての神様からの裁きであったのです。
それでは、死に値するような罪とは具体的には何であったのでしょうか?「怒らせていた」と書かれているので、それは、一度の罪ではなく、常習的なものであったことが予想されます。さらに罪の内容については、全く私たちに知らさせてはいませんが、38章の文脈を考えるなら、大よその予想はつきます。38章を読めば、それが結婚と性的罪についての記述であることは一目瞭然です。ですから、エルの罪も結婚を重んずる神様を怒らせるような重い性的な罪であったと考えるのが妥当でしょう。また、そのような性的な罪を犯し続けた背後には母親の母国であるカナンの性風俗の影響も見えてきます。
さて、ここからが第一の事件の始まりです。8節においてユダは次男のオナンに兄嫁のタマルとの間にエルに代わって子どもをもうけるように命じました。これは「レビラート婚」と呼ばれる制度です。古代当方では、子がないままで死んだ兄の弟は、兄嫁と結婚する義務がありました。そして、与えられた第一子は死んだ兄の世継ぎとなります。このような制度は聖書では申命記25章5節以下に神様の御心として命じられますが、それ以前にも既にイスラエル社会でも当然のように行なわれていたようです。
しかし、オナンはタマルとの間に与えられた子が、自分の子でなく、兄の子となることを知っていました。オナンの心の中には死んだ兄に対しての敵対心があったのでしょうか、自らがユダ族の長子となりたかったのでしょうか、彼の心の中は推し量ることしかできません。しかし、彼は明らかに妊娠しない方法をとりました。聖書は9節で「兄嫁のところに入ると、地に流していた。」と記しています。つまり、タマルとの性行為の中で、オナンは自分の精液をタマルの膣内でなく、地面に流していたのです。
このことに対する主の評価はどうだったでしょうか?「彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した」と10節にあります。多くの方はご存知でしょうが、この「オナン」という人名から「オナニー」(自慰行為)という言葉が発生しました。もしかすると読者の中にも、「神様はオナニーを罪としておられるのだ。聖書はオナニーを死に値する罪だとしているのだ。」と受け取った方もおられるかもしれません。
しかし、よく考えてみてください。オナンのしたことはいわゆる「オナニー」でしょうか。オナンの性行為にはタマルという相手がいました。性の対象が実在せず自己完結的な性行為であるオナニーとは全く異なります。オナンは妊娠避けるために精液を膣外に流したわけですから、それは今日で言えば、避妊のための膣外射精に相当するでしょう。ですから、この記事だけから「オナニーは罪、しかも死に値する罪」と判断するのは間違いでしょう。また、以下のようにオナンの罪について考えるなら、一概に避妊や膣外射精が即罪であるという見解も成立しないと思います。(ただし、一方でオナニーには罪の可能性はないとも、どのような避妊方法にも問題はないとも言えません。念のため、誤解のない様にお願いします。)
それでは、オナンの何が死に値するほどの罪であったのでしょうか?御心に逆らって子孫を残そうとしなかったことでしょうか?兄の子になるなら嫌だという自己中心でしょうか?多分、それ以上に神様の目に重い罪と映ったのは彼の欺きであったのではないでしょうか?オナンは嫌なら、結婚と拒否することも、タマルとの性関係を拒否することも出来たでしょう。彼はそのように正面から拒否しないで、あたかも性関係があるかように、義兄としての義務を果たしているかのようにタマルや両親をだましていました。それこそがまさに死に値する罪であったのではないでしょうか?それはタマルや両親の期待を裏切ったというレベルのものではなく、神に従う振りをして欺いたという神様に対しての罪であったはずです。
新約聖書の使徒の働きによれば、教会の中で最初に裁かれた大きな罪はあのアナニヤとサッピラの罪でした。それは言うまでもなく欺きの罪でありました。それは死をもって裁かれました。私たちは現代人は偽りを大して重い罪だとは感じなくなっているようです。どうも罪に対しての感覚が麻痺しているかのようです。しかし、神様の目には偽りは大変大きな罪であることを聖書は記しています。
男女が最も真実に交わるべき性の世界に欺きが入りました。しかし、よく考えるなら、悲しい事ですが、性の世界ほど偽りや欺きの活躍する場もないでしょう。お金と並んで性は人間の欲望が渦巻く世界ですから、そこに欲望達成のための欺きは付き物でしょう。「騙した」「騙された」などは演歌の例を挙げるまでもなく、性における欺きの典型です。「愛している」と騙して女性を物にする男性がいます。一方、「今日は大丈夫な日だから」男性を油断させ、妊娠という既成事実を作り結婚に持ち込むしたたかな女性もいるようです。
「男と女・騙し騙され」という世界を人類は凝りもせず未だに歩んでいるのでしょうか?
人間が罪人である限り、世界のどこでもタマルとオナンのようなカップルが登場するのでしょう。
しかし、私たちが神の前に真実に生きるなら、事態は変化するはずです。神への真実な姿勢は性的なパートナーへの誠実さにつながります。一人でも多くの人が神の前での真実な生き方を通じて、真実な偽りなき愛を持って、夫婦間において性が営まれることを願って止みません。
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