古代社会における性の商品化〜ラバン
「朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。『何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。』」(創世記29章25節)
イサクとリベカの間に与えられた双子の兄弟、エサウとヤコブは長子の権利をめぐって醜く愚かな争いを繰り広げます。当時のイスラエル社会において、長子は様々な特権を与えられていたようです。特に財産分与については、長子は他の子どもの2倍を相続する権利があったそうです。そのことからも、いかに長子の権利が価値ある事かが分かります。
そこで、弟ヤコブは母リベカと結託して、卑劣な手段によって、兄エサウから長子の権利を奪います。当然、権利を奪われたエサウはヤコブへの憎しみを募らせて行くのです。そして、父イサクの余命も長くない今、エサウは父の死後にはヤコブを殺そうと決心するのです。
エサウの殺意を耳にしたリベカは、ヤコブを避難させます。ヤコブにとっては、その叔父にあたるラバンのところに彼を送ります。ところがそのラバンという人物がただ者ではありません。きっと神様の摂理なのでしょう。ラバンという人物はヤコブに輪をかけたような卑怯な極まる策略家だったのです。神様は同じタイプの人間を用いて、ヤコブに自らの姿を自覚させ、ヤコブを取り扱おうとされたと考えられます。
創世記29章には、ラバンの異常なまでの卑劣さが描かれています。彼は、利益のためなら、手段を選びません。人を平気で騙します。人格を無視して他者を巧みに利用するタイプの人間です。
ヤコブはラバンのもとで羊飼いとして働くこととなります。ラバンはヤコブに労働の報酬を与えようとします。ラバンには二人の娘がいました。姉の名はレア、妹の名はラケルでした。ヤコブは妹のラケルを愛していましたので、ラケルとの結婚を報酬として7年間、ラバンのもとで働きました。そして、いよいよ、待ちに待ったラケルとの結婚です。
しかし、有能なヤコブの働きによって富を得たラバンは、ヤコブを手放すのが惜しくなりました。そこで策略家ラバンは、見事なまでの卑劣さでヤコブを騙します。それが何とこの結婚の祝宴後に起こったのです。
祝宴の後、新妻と一夜を過ごして朝が来てビックリ!何と、それはラケルではなく、妹のレアだったのです。そこで冒頭の聖句です。騙されたヤコブは烈火のごとく怒ります。もっとも神様はこのことを通して、ラバンの内にヤコブ自らを見い出させ、自らの罪深さと騙される側の痛みを教えようとされたのでしょうが。
多分、ヤコブは暗さとベールのために、見破ることができなかったのでしょう。しかし、結婚詐欺同然とは言え、レアとの間に性的な関係を持ったからには、法的にも夫婦なのです。もはや、ヤコブは一方的に結婚を取り消すわけにはいきません。
ヤコブの訴えを聞いたラバンは計画通りにまずは言い訳をします。妹を姉より先に嫁がせることはしないと告げます。そして、ラケルとの結婚を報酬にもう7年間仕えることを命じました。ラバンの卑劣さに怒りながらも、ラケルを愛するヤコブは、この申し出を断ることはできませんでした。かくして、すべてラバンの読み通りに事は進み、ラバンは続けてヤコブによって財を築いて行くこととなります。
結局、ラバンのしたことは古代社会における性の商品化に他なりません。ラバンは利益のためなら、自分の娘の性さえも利用する卑劣な父親であったのです。彼はラケルの性を用いて、ヤコブの労働の報酬としました。さらに、レアの性を利用し、さらに7年間の契約を得たのです。どちらも、ヤコブの労働力を得るために、性が金銭に換算され、商品化されたのです。
現代にもラバンは世界中にいるようです。特にタイにおいてはラバンのような父親がかなり一般的のようです。ご存知のようにこの国ではエイズが国家的な大問題になっています。その直接の原因は売春婦にHIV感染者が多いことにあります。さらに、原因を追求するに、タイでは売春が非常に盛んであることに行き当たります。タイの一般の女性は、貞操観念が非常に強く、結婚までは純潔でいるのが当然です。そこで男性たちの多くは、性の対象として売春婦を必要とするのです。需要が多いので供給も多いと言うことでしょう。
そのような社会的状況がタイの親たちの倫理観を狂わせてしまったのでしょうか。タイでの宣教経験のある先生の話しでは、タイの貧しい親たちは、女の子が生まれると大喜びするそうです。なぜなら、その子を将来売春婦にして富を得ることができるからです。恐ろしいことに、それは貧しい人々の間では一般的な通念となっているのです。親たちはそれに対してあまり心を痛めませんし、売春婦になる少女たちもそれは親孝行であり、道徳的に良いことだと教えられ、信じているのです。つまり、タイの貧しい家庭の少女たちは「目的は手段を正当化する」と教えられているのです。
「タイにおけるエイズ問題は根底にある貧しさが解決されなければならない。」このような見解は正論ですし、私も賛同します。しかし、一方において貧しい人々の倫理観が変えられることも不可欠です。たとえ、タイの貧しさが一定の解決を得たとしても、倫理観が同じであれば、状況はあまり改善されないでしょう。男性たちは続けて売春婦のもとに通うでしょうし、より貧しい人々は、今度はさらに豊かな生活を求めて自らの娘を売春婦とするでしょう。
ラバンやタイの貧しい親たちが娘に対してしていることは、家畜を育てて肉屋に売る牧畜業と本質的に違いがありません。家畜を育てて、商品として売ることは、正当な経済活動です。聖書的な倫理では、(少なくとも牧畜に関しては)動物の命は商品化されて良いからです。しかし、人間の性を商品化することは、経済活動の手段としては不当です。たとえ、家族を餓死から救う目的であっても、それは神様の前には大きな罪であります。
なぜなら、性は人格だからです。人格は目的とされるべきものであり、決して手段とされてはならないものだからです。ましてや、利潤追求のための手段(商品)とされてはならないのです。性を商品化することは、人格を売り渡すことに他なりません。それは、神様が定めておられる人間の尊厳、性の尊厳に反する行為です。
国内に目を転じるなら、そこには日本独自の性の商品化があります。いわゆる援助交際です。他国での少女売春の場合、背後には経営者である大人がいるのが通常です。その意味で日本における援助交際は極めて特殊であると言えるでしょう。性を売る少女自らが経営者なのですから。これは、いわば性産業における個人経営です。これは従来の性産業にない経営形態です。援助交際とは自らが経営者となり、顧客との契約に基づいて自らの性を商品化する行為なのです。その意味で少女たちは加害者でもあり、同時に被害者でもあるわけです。自らの性から人格を引き剥がし商品化しているのですから、加害者です。しかし、その悪の対象が自らなのですから、加害者でもあります。
いつの時代も、女性の性は商品的価値を持ちます。男性側には常に需要があります。需要があるところ供給があるわけです。そこで、性を商品化し、儲けようと企む人々が登場します。性はその人格性を引き剥がされた時、それは容易に商品となります。ラバンの行為は今もタイにおいて引き継がれています。
また、形態は異なるとは言え、同様の行為が行われています。自らの性を商品とする女子高生であれ、性産業の背後で利潤をむさぼる暴力団であれ、ポルノ産業を支える堅気の会社組織であれ、性を商品化する人々はすべてラバンの末裔と言うべきでしょう。
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