政治的に利用された女性の性〜イサクとリベカ
「その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、『あれは私の妻です』と言うのを恐れて、」『あれは私の妹です』と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。」(創世記26章7節)
創世記26章によれば、イサク一家は自国に飢饉があったので、ゲラルという土地に避難し、ペリシテ人の王アビメレクの支配下で生活することとなりました。ゲラルに住んでいるとその土地の人々が、イサクの妻リベカのことを尋ねます。ゲラルの土地でもリベカの美しさが評判になったのでしょう。当時は、夫を殺して美しい人妻を奪うという出来事は決して珍しくなかったそうです。そこで、当然イサクは自らが殺され、妻が略奪されることを恐れます。
そう言えば、このような状況は、以前にもどこかで読んだ覚えがあるのでは。そうです、創世記12章です。ここでは、アブラハムがほとんど同様の状況に遭遇します。以前にも紹介しましたように、アブラハム・イサク・ヤコブは三代に渡る卑怯の老舗(しにせ)であります。二代目イサクは、この状況でやはり二代目らしく、男の卑怯さを見事に露呈します。父アブラハムと同様の苦境の中、彼のとった打開策はこれまた父アブラハム同様の実に卑怯なものでした。それが冒頭の聖句です。
この場面、やはり、神様の守りを信じ、祈り願いつつ、「妻です」と正直に言うのが正解でしょう。また、危機を察したら、この土地から逃げる事もできたでしょう。それが信仰者らしい態度でしょう。そして、それでもリベカが危機に瀕したら、自らの命をかけて妻の貞操を守ることが、夫としての使命であったはずです。
ところがイサクは実に卑怯な画策をします。リベカを自分の妹という事にして、保身を図ったのです。確かに「妹です」と言えば、イサクは殺されずに助かります。しかし、妻のリベカはどうなるのでしょう。夫以外の男性に奪われてしまうのです。つまり、イサクはリベカの貞操と引き換えに自らの保身を図ったのです。
しかし、神様は不思議な方法で二人を守られました。その土地の王、ペリシテ人アビメレクが窓からそとを眺めていると、そこにはイサクがリベカを愛撫する姿が。二人が町の噂のように兄弟ではなく、夫婦である事を悟ったアビメレクはイサクを呼び寄せます。そこで、アビメレクは事の真相をイサクから聞き出します。そしてアビメレクは自分の民が罪を犯す事を恐れて、「イサクとその妻に触れる者は必ず殺される」との勅令を発しました。全能なる神様は異邦の王の心さえ動かして二人を守ってくださったのです。
その後イサクは農業によって莫大な収穫を得て、多くの家畜と奴隷を持つようになります。聖書は「主が彼を祝福してくださったのである」と記しています。私などは正直なところ、神様に文句を申し上げたい気分です。「こんな卑怯な男を祝福しないで下さい。妻の貞操と引き換えに自己保身を図るような奴には、災いを下して悔い改めに導いてください」と。もちろん、このような結果は人間側の状況に依存しない神様の恵みの不変性や一方性を示すものでありましょう。
さて、時代は戦後の日本に移ります。イサクの行った行為は、「性を防波堤とした自己保身」、あるいは「女性の性の政治的利用」と表現することができるでしょう。個人的な思い入れからでしょうか、この事件はいつも、私に沖縄と日本本土の関係を連想させます。この時のイサクとリベカの関係は、私にとっては、終戦時から現在に至るまでの日本本土と沖縄の関係を思い起こさせるものなのです。それは、かつて私が新婚旅行で沖縄を訪ね、2000年の日本宣教会議(沖縄で開催)において沖縄を学んだ事と無関係ではないでしょう。
一部異論もあるでしょうが、沖縄は終戦時、日本の国体保持のため犠牲とされました。敗戦が決定しているなか、時間稼ぎのため、トカゲのしっぽのように扱われたのです。つまり、沖縄は日本本土の自己保身のための防波堤であったのです。そのことは、現在も本質的には何ら変っていません。日本の国土にある米軍基地のほとんどは沖縄という小さな島に集中しています。今なお沖縄は安保体制という名の自己保身のため、防波堤の役目を負わされています。
そして、防波堤とされ、政治的利用をされているのは、沖縄県とその県民だけではありません。聖書と同様、やはり自己保身に用いられているのは「女性の性」なのです。沖縄の女性たちの性は、日本国家によって政治的に利用されてきたと言っても大袈裟ではないでしょう。
大きな書店に行けば、沖縄における米軍の犯罪についての書物が幾つか置かれています。私はその中の一冊を立ち読みした事があります。それは特に米軍の性犯罪に関するレポートでした。作者であるルポライターが、米軍にレイプされた女性を見つけ出そうと試みます。しかも、事件として公になったり、裁判にならなかった事例を探したのです。
日本本土であれば、そのような事例は、そう簡単には見つからないでしょう。ところが、沖縄では、大した労もなく10人程を見つけ出すことができたのです。そして10人とも、裁判を起こすことも、米軍に訴えることもなかったことが判明したのです。つまり、泣き寝入りなのです。ただでさえ、レイプは裁判にしづらいものです。ましてや相手は米軍です。訴えても、治外法権という理由で加害者は大した刑罰も受けず、別の国へ移されるだけということです。沖縄の女性たちとその家族はそのことを知っており、結局泣き寝入りをせざるを得ないのが現状です。
数年前、米軍による少女暴行事件が大変な社会問題になりましたが、あのような悲惨な事件も氷山の一角に過ぎないことが予想されます。沖縄の女性たち、特に基地近辺に住む女性たちが、戦後そのような危機にさらされ続けてきた現実を本土の人々は知る必要があるでしょう。
イサクが実行しようとしたリベカの性の政治的利用、それは戦後日本の国家が、いいえ、本土の国民が行ってきたことではないでしょうか。安保体制という自己保身の中、防波堤とされているのはやはり、女性の性なのでしょうか?
現在、沖縄の米軍基地の近くには、駐留軍の性的欲望の防波堤が多くあるそうです。一般市民の女性を性犯罪から守るには、プロの女性を用いるのが最も安易な方法だと言う事でしょうか?しかも、その女性たちの多くは、現地沖縄の女性でも日本人女性でなく、貧しいアジアの国の女性だと言う事です。まさに二重の意味で差別だと言えるでしょう。
自らの性を犠牲にされた沖縄が今は、一方で自己保身を図っている姿がここにあります。日本の自己保身の防波堤である沖縄が、貧しいアジアの女性たちの性を防波堤に自己保身を図っているのかと思うと、やりきれない思いがします。しかし、沖縄に犠牲を強いてきた本土の者には、そのことを非難する資格などないでのす。
今回の聖句は、一つの原則を示しています。それは、男性の自己保身に用いられるのは女性の性であるということです。弱者である女性の性が政治利用されるのです。多くが男性である政治家たちが、あるいは権力者たちが図る自己保身、その最終手段は女性の性なのです。今回は、男性の持つこの罪の普遍性に目が開かれたらと願います。
|