祝福された高齢者の性〜アブラハムとサラ
「サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」(創世記21:2)
神様はお約束の通り、更年期後の老年夫婦に約束の子を与えられました。神様の業は確かに超自然的ですが、全く自然の秩序を無視したものではなかったようです。聖書を良く読むと、90歳になる老女サラが、受胎能力もない老いた肉体のまま、このような奇蹟が起こったのではないことが分かります。
前の章である20章においては、アビメレクという権力者が既婚者とは知らず、サラを召し入れようとします。90歳の老女を召し入れるはずがありません。どうも、サラは老女から若返り、外見も美しくなっていたと考えられます。それは、サラが身ごもり、約束の子を産むために神様が特別に起こされた奇蹟でしょう。この時アブラハム100歳、サラは90歳、この老年夫婦に子どもが与えられたということは、当然、この老年夫婦に性生活があったということを意味します。
日本では高齢者の性はタブー視されがちです。高齢期にも性的な欲求があることは、当然のことであるにもかかわらず、「いい年して」などと非難されてしまいます。高齢になれば、枯れ木のようになり、性的欲求などという「煩悩」は消え失せると考えるのは、全くの事実誤認です。
よく「女は灰になるまで」と言われます。職務上の必要があり、大岡越前が妻の母に、女性の性的な欲求はいつまであるのかと尋ねると、老いた義理の母は、返答せずに火鉢の灰をつついてばかりいたという有名な話しがあります。
越前は、そのしぐさから「灰になるまで」と悟ったと言われています。実際に、女性の性的な欲求を生み出すホルモンは、高齢になっても分泌され続けることが発見されています。ですから、「女は灰になるまで」という格言は、医学的な根拠を持った真実だと言えるでしょう。
また、男性側について言えば、さらに厳しい批判にさらされます。高齢となり、後妻など迎えようものなら、財産相続の問題も絡んで非難ごうごうです。高齢者の性的欲求自体が批判の的となりかねません。特に日本社会では、生殖能力を失ってしまった男性が性的な欲求を持つことは理解されていません。日本社会に蔓延してしまった「性は肉体上の生理現象」という貧困な理念のため、高齢者が人格的なぬくもりや孤独の解消を性の世界に求めることなどは、およそ理解されないことのようです。たとえ、肉体上の性的な機能は停止しても、心の性は男女とも生涯にわたって継続するものです。そして、人は一生、性的充足を求めながら生きるのです。
日本でも高齢者の性に関する良書はいくつも出版されています。重い口を開いて高齢者の性について語る高齢者施設の女性職員たちの証言は、生々しくショッキングであるとともに、厳粛な思いをさせられます。男女別棟であったのを同じ棟にしたら、高齢者たちが、若々しくなり生き生きとし始めたなどという、微笑ましいものもあります。つくづく、「人間は人間である限り、生涯、性と向かい合うのだなあ」と感心してしまいます。しかし、神様は人間を性を持つものとして造られたのだから、聖書的な視点で見れば当然のことかも知れません。
欧米社会においては、高齢者の性についての理解は日本に比べるなら、随分浸透しているようです。欧米では、老年の夫婦がベッドで抱き合う写真が一般的に見られるそうです。高齢夫婦の性生活が社会的認知を受けている証拠でありましょう。確かにこれは、日本では皆無に近いことです。
今や日本は人類史上まれに見る高齢化社会を迎えようとしています。やがて高齢者の性の問題は「臭いものには蓋をしろ」的な解決では済まなくなるでしょう。このことが、性を人格や心と切り離し、「性行為=性器結合」という偏狭な理念でしか性を考えることのできない現代の日本人に、一大転機を与えることを期待しています。
生殖能力を失っても、性は続くのです。男女とも生涯、肌のぬくもり、心の交わりを求める気持ちは変りません。アブラハムとサラの性生活を祝福してくださった神様は同じく現在の高齢者夫婦の性生活を祝福し、喜びに満ちたものとしてくださるでしょう。
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