不妊カップルの悲しみ〜アブラハムとサラ
サライはアブラムに言った。ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。(創世記16章2節)
結婚披露殿でのお祝いの言葉にありがちな一言。「次はかわいい赤ちゃんを楽しみにしています!」
私はこのようなスピーチに対してはかなりの反発と不快感を覚えます。一番の理由は、日本の夫婦の10組に一組は不妊カップルだからです。意外と知られていないことですが、日本の夫婦の一割は生涯子どもを与えられることを願いながらも、与えられずに終るのです。「結婚したら避妊しない限り、子どもが産まれるのは当たり前」と考えているのは全くの事実誤認です。そこには、子どもを与えられる9割という多数派の高慢と少数派を黙殺する横暴ささえ感じられます。
二番目の理由は、それぞれの夫婦には家族計画があるからです。「早く赤ちゃんの顔を」などは「余計なお世話だ、我が家の家族計画に口出すな」と言いたいですね。それぞれの夫婦には、よりよく神と人とに仕えるための家族計画があるはずです。なかには、子どもを早く与えられることを願いながらも、尊い目的のため、妊娠を遅らせている方もおられることを覚えて欲しいものです。
三番目の理由としては、「子どもが与えられるのが幸福な夫婦」「そうでないのは不幸な夫婦」という前近代的な偏見を感じるからです。「子どもが家庭に幸せを運ぶ」などと言うのは、おめでたい幻想に過ぎません。子どもは家庭にとって幸せを運ぶ天使にもなれば、不幸をもたらす悪魔にもなりえます。子どもが夫婦に亀裂を与え、家庭を崩壊させる場合さえなきにしもあらず。クリスチャンホームの暖かな親子団欒という固定イメージで、家庭的幸福を捉えるのはあまりに偏狭でしょう。独身者にも、子どもが与えられない夫婦にも、神様はそれぞれの祝福を与えておられます。
教会の中でも「お子さん、まだ?」などという「暴言」を耳にします。相手が不妊カップルであるなら、その方はどんなに傷つくか分かりません。仮にもクリスチャンであるなら、不妊の女性がどんなにかつらい思いをするかは、聖書を学んでご存知のはずでしょうに。
今回の聖書箇所も私たちにそのことを教えます。15章においてアブラハムは神様から無数の星のように膨大な子孫が与えられるとの約束をいただきました。しかし、現実を見るなら、自分たちは現代的に表現するなら明らかに「不妊カップル」だったのです。神様が子孫繁栄を約束された一方で、同じ神様がサラに子どもを与えないのです。この矛盾した現実の中、サラが思い付いた解釈、それは「神様は奴隷によって子どもを得ることを計画しておられる」というものでした。サラは、妻である自分が産まなくとも自分たちの子どもには違いないと考えたのでしょう。
サラはアブラハムに女奴隷によって子どもを得るようにと勧めました。当時の古代オリエント社会では、妻が子を産まなかった場合、女奴隷を側室として与えることが一般的な風習でした。当時の一般通念は子孫繁栄であったので、女性の最大の役割は出産でした。その反対に不妊夫婦であることは、大きな不幸であり、神様の祝福にはんすることとさえ考えられていたようです。特にアブラハムとサラの場合は神様の祝福の約束が実現しないのですから、それは深刻な悩みだったでしょう。
私の存じ上げているひとりの姉妹は特殊な事情があり、大学病院で出産をしました。その病院は様々な不妊治療も行っていました。姉妹が過ごした病室には、不妊に悩む方、不妊治療に成功した方、失敗した方、通常の妊娠で出産を待つ方、出産を終えた方などが一同に会していたのです。同じの病室の中に、女性としての希望と失望が、新しい命に対しての不安と喜びが入り交じっていたのです。その病室の中で、姉妹は不妊に苦しむ女性に触れ、その生の声を聞き、ひとつの決心をしたそうです。
その決心とは、自分は二度と既婚女性に向かって「お子さんは?」「赤ちゃん、まだ?」という言葉を発しないということです。同じ女性であるなら、特に女性としての悲しみを理解し、配慮ある態度をとりたいものです。聖書に度々登場する不妊に苦しむ女性たちを通して、そのような配慮を身につけたいものです。教会の交わりこそ、9割が1割を傷つけることのない世界であって欲しいと願います。むしろ、痛んでいる1割が、慰めと励ましを得る世界であればと思います。
確かに性は命を生み出すものです。しかし、それは命を生み出す可能性を持つものだという意味です。命を生み出し得ぬ性もあるという現実から、出発をしたいものです。
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