性を防波堤とした自己保身〜アブラハム
「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にもよくしてくれ、あなたのおかげで、私は生きのびるだろう。」(創世記12章13節)
「男って卑怯よね。」テレビドラマや映画の中でよく耳にする言葉です。現実の世界でも、同じように呟いた女性、同じ言葉を浴びせられた男性は少なくないでしょう。どうも、独身の女性は「男は卑怯である」という事実を発見してこの言葉を発する場合が多いようです。既婚者の女性の場合は再確認のための発言となるでしょう。結婚して夫の卑怯さを発見しない女性はまずいないでしょう。
男性である私の立場から言えば、「何をいまさら」という感があります。男が卑怯なことは男が一番良く知っています。一般に男らしさの代表と考えられている「腹が座っている」と表現される性質など、大抵の男性は持ちあわせてはおりません。誰の責任かは別として、日本女性の男性理解の低さは男性から見れば驚きです。「男は卑怯であってはならない」という理想の男性像が社会的に定着している反面、「男が卑怯である」という事実がこうまで知られていないのは不思議でなりません。
だいたい、男が卑怯なことくらい、現実の男性たちを見ていれば明らかではありませんか。例えば、日本男性のリーダーである男性政治家たちを見れば一目瞭然です。時に自らの政治理念を犠牲にしてまでも、自己保身に明け暮れるあの姿が男の卑怯さ示す以外の何者でありましょうか。それに比して女性政治家たちの毅然とした態度は今や国民と地域住民の信頼を得ています。相次ぐ女性知事誕生はその事を証明するものでしょう。
しかし、男の卑怯さ加減を知りたいなら、聖書ほど優れた資料はないでしょう。聖書はいかに立派な信仰者男性であっても、容赦なくその男性特有の罪である卑怯さを暴いています。中でもアブラハム・イサク・ヤコブは3代にわたる「卑怯の老舗(しにせ)」と言ってよいでしょう。創世記12章後半に描かれた物語はアブラハムの男としての卑怯さが露呈した事件でした。また、創世記の26章6〜11節をお読みください。同様の事件がイサクにも見られます。
さらに現われは異なりますが、ヤコブの卑怯さたるや、もはや隠そうともしていません。彼の露骨なまでの卑怯さ凄まじいものがあります。
前置きが長くなりましたが、冒頭の聖句についての解説です。創世記12章はアブラハム(この時はアブラム)の召命から始まります。アブラハムは神様の召しに従い、故郷を離れカナンの地に到着します。しかし、そこに飢饉があったので、エジプトへ避難します。
エジプトに入ったアブラハムは一つの不安を覚えます。妻のサライは「見目麗しい女」(11節)であったからです。そこで予想される事は「エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう」(12節)ということです。つまり、エジプト人が、サラを見て我が物にしようと願います。しかし、夫がいる事が分かれば、そのエジプト人は、アブラハムを殺して、サラを奪うだろうということです。エジプトの当時の社会情勢からすれば、当然予想すべき危険でしょう。
そこで、アブラハムは神様に守りを願って祈ったでしょうか?故郷を離れて以来、ここまで献身的に従い続けてきたアブラハムがどうしたことでしょう。神様に相談する事もなく実に人間的な対策を講ずるのです。その対策こそが、男の卑怯さを見事に暴露するものなのです。
「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にもよくしてくれ、あなたのおかげで、私は生きのびるだろう。」(13節)
何たる卑怯でしょうか!二人が兄弟だとすれば、アブラハムはサラを妻として得ようとするエジプト男性から、殺される事はなく、むしろ優遇されるだろうと言うのです。では、サラはどうなるのでしょうか。みすみすエジプト人の妻にされるのをアブラハムは傍観するつもりだったのでしょうか?何たる自己中心でしょうか。彼は自分の妻を何だと思っているのでしょうか。妻を差し出してまでも自分の命を守ろうとしたのです。私はこの行為を「性を防波堤とした自己保身」と呼びたいですね。卑怯な男は自己保身のためなら、妻の性さえも犠牲にするのです。
14節以後を読みましょう。アブラハムの予想通りの展開となります。そして、アブラハムはパロ(エジプト王)に妻を差し出し、自分の身を守ります。それどころか、16節にあるように莫大な謝礼を得ているのです。これでは、自分の妻に売春させて金銭を得ている夫と変わりありません。アブラハムは、夫として恥ずべき最低の行為をしているのです。
17節にあるように、神様の特別な直接介入があり、サラの貞操は守られました。もし、神様の介入がなかったら、と思うと身の毛がよだちます。このような人物を信仰の父としてくださるのですから、神様の恵みとあわれみの大きさが分かります。
聖書は夫に命じています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:25)ここでは、妻に対しての夫の愛は、教会に対してのキリストの愛を模範とすべきであると語られています。
ではキリストはどのような愛で教会を愛されたでしょう。それは文字どおり「命がけの愛」です。「君のためなら死んでもいい」と言葉で示した愛ではありません。本当に死んでくださったのです。教会(罪人の私たち)を生かすために御自身がすすんで死んでくださったのです。他者を生かすために自らを殺すという犠牲を惜しまぬ愛が夫には求められているのです。
夫たる者は妻のために死ぬ覚悟ができていなくてはなりません。アブラハムは本来、妻サラの貞操を命懸けで守るべきであったはずです。自分が命を失ってでも、妻の性を守ることが彼の使命であったはずです。
「いざとなると男って本当に卑怯ね」男性には耳の痛い声が聞こえてきそうな事件です。
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