人類初の同性愛と近親相姦〜ノアの一家
「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」(創世記9章22節)
前回取上げたレメク以来、人類はいよいよ神を離れてゆきました。罪は人間社会の中でますます広められ、深められてゆきます。今や地は神の前に堕落し、暴虐に満ちています。主なる神様は心痛められ、その悲しみは極限に達しました。神様はついに人類を地より一掃する事を決断されます。ただし、唯一主の心にかなっていたノアとその家族を除いては。
後は皆さんよくご存知の洪水物語が続きます。やがて洪水の水も引いてゆきます。そして9章において、神様は空にかかる虹をしるしとして全人類と再契約をされます。それは全人類にとっての希望に満ちた再スタートでした。しかし、その素晴らしい再スタートも性的な罪によっていとも簡単に挫折してしまうのです。
18節以下ではノアとその3人の息子、セム、ハム、ヤペテがクローズアップされます。ノアは農夫となり、ぶどう畑を始めました。ある時、ノアはぶどう酒を飲んで酔ってしまい、天幕の中、裸で眠ってしまったようです。ノアのこの飲酒にともなう醜態が悲惨な性的罪の引き金となってしまいます。息子のひとりであるハムが「父の裸を見た」のです。
「父の裸を見た」とは一体何を意味しているのでしょうか。「親父が酔って裸で寝ているぞ」と父の醜態を自ら喜び、なおかつ他の兄弟にうれしげに言いふらしたことでしょうか。そのように父親を尊敬せず、父の権威をないがしろにしたことが大きな罪でしょうか。
24節以下で「ハムが自分にしたこと」を悟ったノアは、ハムに対して呪いを宣言します。「呪われよ。カナン(ハムの子の名前)、兄弟達のしもべとなれ。」
随分、激しい、また厳しい呪いの宣言です。父の醜態を喜び、父親を侮辱しただけにしては、あまりに大袈裟ではないでしょうか。一体、ハムが行った「父の裸を見た」という行為は何を意味するでしょう。
私が持っているチェーン式聖書の脚注には「ハムの罪は十戒を基準とすれば、第5戒だけでなく、第7戒への背反でもあろう。」と書かれています。弟5戒は「あなたの父と母を敬え」ですから、納得がいきます。しかし、第7戒は「姦淫してはならない」です。これはどういう事でしょう。「男どおし、しかも親子であるノアとハムの間で姦淫?」と考えてしまいます。
実は「裸を見る」という言葉は婉曲表現です。直接的な表現が好ましくない場合に用いられる表現方法です。聖書中も性的な表現には、しばしば婉曲表現は用いられているようです。この「裸を見る」という婉曲表現が何を意味するかは、レビ記20章17節を読めば明らかとなります。
「人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼は断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない」(レビ記20:17)
そうです。「裸を見る」とは、性的関係を持つ事を意味するのです。人類の再スタート直後の事件としてはあまりにショッキングです。哀れみと恵みに満ちた神様の再契約の後に待っていたのは人間側の暗黒のような性的罪であったのです。一夫多妻以上の性的な逸脱が、ここには描かれているのです。それは人類最初の同性愛、なおかつ人類最初の近親相姦であったのです。
創世記はモーセが編集者であったと考えられています。ハムの子の名前はカナンですから、察しのよい読者はもうお分かりでしょう。カナンは、出エジプトの民が目指した約束の地です。しかし、同時にその地の先住民であるカナン人の文化は、偶像と性的罪に満ちたものでした。多分、モーセ(あるいは別の記者)は、カナン人文化の持つ性的堕落の起源をこの事件に帰したのでしょう。
そして、カナンの文化、特にその性的文化にイスラエルが染まらないようにと願ってこの記述を残したと思われます。24節においてハムが罪を犯したにもかかわらず、子であるカナンが呪われているもそのことを暗示しているのでしょう。
偶像礼拝に性的罪は付き物です。人間にとって最も本質的なものと言える神を離れるなら、人は次に本質的なもの、すなわち性において逸脱するものです。日本でも偶像礼拝の場所の近くに、性的罪の場があることは周知の事実です。
多神教であったカナンの文化では、同性愛も近親相姦も性行為の選択肢の一つであったようです。特に古代文化においては、同性愛はかなりの社会的認知を得ていたことが知られています。
性を研究する学者の方々によれば、人間は誰でも潜在的に同性愛傾向と近親相姦欲求を持っているそうです。ただ、社会的規制や本人の道徳感がそれを抑圧しているのだそうです。まさにすべての人は罪人、性的罪人として生まれている事を実感します。
現在アメリカでは、同性愛はもちろん、近親相姦が大きな問題となっています。家族が崩壊し、疎外感の中、基本的な良心が形成されずに育った人々は、そのような潜在的な性的罪の欲求を自制できず、実行に移してしまうそうです。
そして、日本においても同性愛のみならず、近親相姦の問題は既に専門家の世界では大きな問題となっているようです。父親の心理的不在、母親の支配性に代表される歪んだ日本の家庭を背景に、今後、日本社会においては、同性愛と近親相姦の問題はますます、増加し、顕在化してくるものと予想されます。教会も決して傍観者ではいられなくなる事でしょう。
同性愛と近親相姦。残念なことですが、いかにも現代的なこれら二つの罪は、人類再スタートの直後に重なって起こっていたのです。まさに聖書は現代人の歪んだ性をも読み解く書物であると言えるでしょう。「性生活についても、聖書は人間の生活の究極的規範である」「性に関しても、その解答となる原則は聖書の中ある」。私などは、いよいよそのことを確信してしまいます。
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